If you want to be happy, be.

表題はトルストイの名言らしい。

 

口を開けて餌が放り込まれるのを待ち続ける。そんな人々の愚かさをバッサリと切り捨てるようなひとことである。

 

 我々は、ついつい自分に降りかかるあれこれを何かと他人のせいにしがちだ。

夢がかなわないのは金やコネがないから。金やコネがないのはそういう家に生まれたから。そんな状況が生まれるのは政治が腐っているから。多数決で生ごみを担ぎ上げているわけで、そんな社会はもう終わっている・・・

 

そういうスタンスを貫けば我々はいつまでも被害者でいられるし、あえて努力する必要もない。常に正義である。

手足を奪われた哀れな囚人。嘆くパブロフの犬

 

 

話題は変わる。学歴って何だろう。

 

 私の(暫定的な)答えは「機会」である。かつてのように「安定」や「高収入」が学歴によって保証される時代ではない。しかし、学校には善き友候補(失礼)や優秀な指導者が何万人といて、これまでなんの接点もなかった彼らと自由に交流することができる。そんな環境がインスピレーションを生み、思考を深化する大きな助けとなってくれる。

 そういう意味で、私は都会の大学に進学したかった。そしてした。で、よかった。こんなにも温かく尊敬できる友人に恵まれるなんて、1年前には全く思いもしなかったことだ。何よりよかったのは、彼らの努力が垣間見えること。井の中の蛙には、そういう触発が必要だった。

 

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感染症拡大を受けて大学に通うことすらできなかった春。ひとり暮らしのスタートも切れず、実家に引きこもってオンライン授業とYouTube

 入った大学は第一志望ではなかった。とはいえ、案外名の知れた名門大学が私を受け入れてくれたので、大満足とは行かずとも、どこか満ち足りて燃え尽きていたのかもしれない。

 大学生になったら、無限の可能性が広がっている。そんな淡い期待に冷や水を浴びせたのはコロナだった。まさか春からひきこもり生活に突入するとは、ちょっと話が違いませんかって笑

 このまま何もせずにいれば、なんやかんや学歴や多少の生真面目さで地元の適当な職場に就職して、特に競争や満足が待ち受けているわけでもなく、生かさず殺さずがしばらく続いた果てにぽっくりと召されるのではないだろうか。もうなにも成長なんてないし、詰み筋なんじゃないか。近視眼的な若者はこういう悲観的思想に陥りがちである。と思っている。まさに大馬鹿者である。

 

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 環境を変えてみることは思ったより大切なようで。よく、家では勉強が手につかないけれども自習室に行けば勉強できるんだよね、とほざく人間がいる。私もその一味である。そういうことをいうと、やれ将来を考えて我慢もできない馬鹿者だとかなんとかいう人もいるらしいけれどそんなことはないだろう。世の中そんな理想論では回らないし、そこは本質ではない。砲台の発射角度は、少しずれただけで着弾点に大きく影響する。そこはしっかりと手をかけていい。貧富の差が教育格差につながるのも同じことで、中・上流階級とかいわれる人々の子はその時点で大概教育を受ける素質を持ち合わやすいことになる。それがずるいというよりは、そうでないことこそ憂うべきことだ。

 世界を変えたいとみんな言うけれど、自分を変えようと思う人は多分それより少ない。まずは自分を変えよ。ただし、いざ変わる/変えるためにもまずは整地から入るのがよい。あるいは、整地された場所を自分で選び、移るのだ。それは、世間一般が学歴に求めるところの重大な部分ではないかと思ったりする。

 

 今しかできないことを力いっぱいやりきることの重要性はそこにある。紆余曲折の果てに何かをつかみ取るには、紆余曲折しなければならない(同語反復)。知識とは、記憶力によってではなく思想上の努力によってのみ真に獲得されうる。自分の限界を規定してしまうことはごく自然なことだけれど、ときにはそれを疑ってみたほうが良さそうだ。そうできる環境があるなら、今実行できる、やりたいことにタックルすることが人生のペダルを漕ぐことになるのではないでしょうかね。なにもわかっちゃいないけど。