生まれてきたのは何のため?

なんのためにうまれて なにをしてよろこぶ?

わからないままおわる そんなのは嫌だ!

 

 

 生きる目的――それは狩猟採集に励んでいたころの人類にとっては極めて明瞭だったろう。しかし、学問、経済、医療などあらゆる水準がかつてないほどに進歩し、治安も申し分なく、どうしても首が回らなくなればセーフティーネットにひっかかる。

そんな満ち足りた環境に身を置かれた現代日本人が渇望するものとは何だろう。

 

 

すくなくとも、万人の共通認識として追い求めなければならないものはほとんどなくなったといってもよいだろう。バイタルなものは正味黙っていても手に入る確信があるのかもしれない。

私は一人暮らしを始めて自ら家計簿をつけるようになってからお金の尊さを改めて実感したところであるが、それだって飢え死にするわけでもなければ、望めばすぐにお医者にかかることだってできる。

 

 

それが問題だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

いきねば。

 

 

――生きられます。

 

 

.............

 

 

 

......え、じゃあ、どうする?

 

 

 

 

 漫然と過ごして後から後悔する、なんて話はちっとも珍しくない。いや、むしろそれが自由というものだ。目的がないから日曜日は朝から晩までゴロゴロできる。心行くまで読書ができる。ゲームができる。スポーツができる。勉強ができる。余計なことができる。

 

一日中思索に励むなんて、なんと高尚なことではないか。

 

 

 ところで、「ニートは楽そうでいいな、あわよくばなりたいな」と考えたことがない人はきっとこの地球上に存在しないだろう。しないとして考えることにします。まあでも現実はそんなに甘くないんだろうな、と改めて思うわけです。

 休符は、それ自身のみでは何も生みだせない。

あそび、というものは張りがあるからこそ意味を成す。じゃあ、この有り余る時間は?

 

 

ここまで、なんとなく個人レベルの話をしてきた。

いやいや、それ以前に人類とか太陽系全体としての使命ってないんですか?

 

目的論的には、あるんだろう。

 

ただ、そこに風穴を開けたのが、ダーウィンの"Theory of evolution"、世にいう「進化論(転化論)」だったわけじゃないですか。

要は、自然選択によって生物は転化してきた。ビックバンも、水素ヘリウムの発生も、地球の誕生も、みんなすんごい偶然の産物であってそこに偉大な意志とかはないんだよーっていうド正論ですよね。少なくとも他のそういう理論なんかよりはよっぽど説得力があるよ。

 

 

じゃあ、究極的にいえば人生に意味ってないの?

 

 

いやいや、それは早計過ぎやしませんか。そもそもあなたはずっと宇宙への献身を信条にここまで生きてきたんですかい。そんなことはきっとないよね。

 

 

 

 そう、やっぱり時はマクロとミクロに分けて考えたほうがよいでしょう。

我々は、個人的に言えば、悠久の宇宙に生きるというよりかは無数の瞬間の中を生きているのであって、それが織りなす全体なんてちっとも意識しないまま過ごしているのではないでしょうか。

 

もし、人生に使命であるとか価値を見出すのであれば、それは悠久たる世界の内部、それもほんのほんの一部、無数の瞬間にだけありうるものなのではないかと思うんです。

後世に名を残したい。そういう志は素晴らしいものであるに違いないけれど、マクロな視点から見たらそんなものはほんとにちっぽけなものでしかないのではないか。強いていうなれば、ここまで生命活動に参画し、(間接的であっても)生命をつないできたすべての個体は功労者であろうけども。

 

 

我々はすべてmortalな存在だ。しかしそれは人生という音楽を奏でるのに極めて重要な要素である。少なくとも私はそう確信している。

 

 

永遠なんて 素っ気ないね  ほんの仮初がいいね

いよいよ宴もたけなわ 本番です

 

 

今しかできないことを全力で。