「舌を肥やすな、飯がまずくなる」

足るを知る、さらば富む。

 

 人間が抱く悩みの大半は、人間関係に起因するらしい。確かに、現代日本では生存権が保障されていて、人権も尊重されてるし、治安も良くて、大概の病気は治してもらえる。我々は先人に比べれば今日いちにちを生き延びるためにそれほど体を張る必要もなくなり、ゆとりのある生活が送れるようになったのは事実だろう。見渡せば大卒だらけという状況がそれを象徴している。

 

 そういう社会にあってここ最近表面化している新たな問題というのは、やはり心理的なものであろう。からだへの暴力はほとんどなくなったけれど、ことばの暴力というものは表現の自由とのはざまで依然として繁殖している。

 あのひとはあんなにすごいのに...... あのひとはこんなこともできるのに......

インスタグラマブルな写真の海と、編集済みの近況報告。上澄みのシークレットブーツを履いて、目抜き通りを闊歩する。相対的な価値観にかたちづくられた社会は、精神的でアイマイな世界の存在を許さない。彼らはいつもまっすぐな定規を持っていて、すぐはかりたがる。出る杭は打って、出てない杭も打つ。ワタシもその海をたゆたうはかりであったが、どうやら他の杭よりは高いところにあるらしい――

 

 自己満足、って、社会的にあんまりよくない響きを持った言葉だと思いませんか。少なくとも、「おお、きみの自己満足はすばらしいね!」と言われて手放しに喜ぶひとは少ない。それは、きみのなかだけで完結するものごとに、社会はほとんど価値を見出さないってことだよね。まあ、大抵の自己満足は他人に何のメリットももたらさないし、あるとすればデメリットばかりだ。そういう価値観が一般的なのは至極当然だろう。

 

 逆に、他人のために身を粉にして働くひとは社会的に好まれる。だけどそれは、心じゃなくて、労働という没個性的なものに対する好意であることがほとんどだ。バカ真面目は重宝されても愛されない。大企業Amazonは称えても、勤勉な配達員を褒め称えた人はどれほどだろうか。売春婦に群がる男衆に、骨を拾う覚悟を持った者はどれほどだったろうか。

 

 没個性化が進む近代社会で、「わたしとはなにか」という問いは、案外重要である。宇宙の使命に命を燃やす義理はないし、そもそもそんなものはこの短いライフスパンには関係ない。ただのいち市民であったとしても、そのタンポポの根は決して裏切らない個性だ。