方向音痴のグライダー ――未来への産声――
オギャア、オギャア――
母体から産み落ちる赤子。編隊に迷い込むグライダー。
どうやら重度の近視になって、羽ばたき方さえ忘れてしまったところでとんでもない自由を与えられてしまったらしい。
なぜだろう?
.
.
.
.
.
.
.
思うに、それはいかにも坊やだからである。
極めてあいまいな光に向かって、手の鳴るほうへと、吸い寄せられるように、
ガタン、ゴトン。
ガタン、ゴトン。
ガタン、ゴトン。
.
.
.
.
.
.
.
.
有り余る自由を、極限まで余すことなく味わい尽くすにはどうしたらいいんだろう?
道なき道を切り開いていくにはどうしたらいいんだろう?
受動的に重ねてきた偏屈はどうすれば命を宿すのだろう?
まずは動いてみないか、というのが、捻りだされた答えだ。
現代日本には情報が氾濫している。どこへ行っても、みいんなスマホとにらめっこすることをやめない。
情報化社会は我々にたくさんのものをもたらしてくれたが、おかげで我々はなんでも享受するばかりになってしまった。
文明は進歩しても、ヒトはなかなか進化できないのはしかたあるまい。
一見この世界はほとんど完成されたもののように思われるけど、それは単なるドン詰まりかもしれない。
それは、まるで成長をやめた資本主義のように。
しかし、まだ活路はあろう。まだ見ぬ世界も、いまだ知らぬメロディも奏でられる懐がある。
であれば、なにかしらやってみるのがいちばん手っ取り早い。
日夜狩猟採集に追われた原始人のように、いや、しかし文明がもたらした先見と網羅性の力を少しだけ借りながら、過去も未来もない「いま、ここ」を紡ぎだしてみないか。
運動しなければ、思考しなければ、実行しなければ、錆びつくのはあっという間だ。
いつかは死ぬ。けむりになって飛んでく。
でも、君と僕の交流によって、何かが生まれる。
そこに未だかつてなかった情動が湧き上がる。
それが僕の抱ける一縷の希望なんだろう。