幸福とは...? 終戦記念日に考える

このコロナ禍において、人知れず精神的に追い込まれているひとは少なくないだろう。

 

いや、コロナ禍じゃなくても。

現代は人間関係だ仕事だと、なんらかの悩みに溢れたストレス社会だって言われ続けてきたじゃないか。

 

技術が進歩して、ただ生命を維持することにはほとんど困らなくなった僕たち。どうしてこれほどまでに嘆き、悲しみ、時に死んでしまいたいとさえ考えるのだろうか。

 

たぶん答えはシンプルで、精神が満たされないからである。

 

立派な(少なくとも崩れそうにはない)建物を利用し、おいしい食べ物を食べ、機能性に優れた服を着る。さらに電話も調べ物もできる板まで与えられて、市場原理によって洗練された数々の製品を手に入れた。

 

でも、単にそれだけでは何も満たすことができない。

 

コロナ禍とは小さな戦争であった。多数の犠牲者を出し、多くの人との離別を余儀なくされ、疲弊していく。特需に沸く業界もあったが一握りで、どんより鬱屈とした空気が社会を覆う。

 

終戦の日に何を想うべきか?

義務感に駆られて、なんとなく祖先や大日本帝国に対する反省やら同情やらを呼び起こさんとすることにあまり意味はないだろう(ちょっとはあるけど)。

 

今年取り組んでみたいのは、(長期的ないし短期的に)極限状態に置かれた人間と、それに対する文化や精神的充実の重要性について今一度しっかり向き合って、考えを深めていくことである。

 

文化とか芸術のようなものは一般的に、いわゆる「即戦力たりうる生産的な活動」ではなくて、わりかし軽視されたり、その方面に極めて明るい人でも冷遇される向きがある。

たとえばオーケストラの演奏者とか、かなりの努力や投資を要するはずなのになかなか相応の見返りを得られる人ばかりではないようだ。

文筆家みたいなのも、目指せば夢追い人とか世捨て人みたいな扱いを受ける。まるで文系博士課程のようだ。(ど偏見)

 

まあ、そういう意見も一理あるといえばある。

なぜなら「食べる」ためにはお金を稼がなくてはならないし、そのためには誰かに目に見える便益をもたらさなければ難しい。

誰も読まない詩を紡ぐより、スーパーの寿司にバランを添えるほうがよっぽど金になる。

 

そういう資本主義経済の中で私たちはひたすらモノやサービスを生産し、その自転車を漕ぎ続けている。立ち止まることなく2%ずつ成長しようとする。

これは確かに、確かに私たちの生活を豊かにしている。他のナントカ主義よりもよっぽどいい感じの社会システムであろうことは歴史が描写している。

 

生活保護みたいな社会福祉制度もあって、某メンタリストがしっかり非難されるような、いっけん「犬死に」とは無縁な現代社会において、どうすれば我々は幸せになれるのだろうか、、、?

 

それこそが文化であり、内省である。それは、心で感じるものである。

 

たとえば、唱歌「赤とんぼ」を口ずさむだけで、薄赤色に染まる幻想的な光景がぶわりと浮かびあがってくるような心地がしないか。

たとえば「テルーの唄」を聴けば、雄大な自然と名状しがたい感動が湧き上がってくるようではないか。

たとえば友人が手を振りかけてくれたとき、無意識に弾むこころを感じないか。

たとえばあの人のことを想うとき、胸の奥からじわりと、滲みだすやるせない情動が君を包むではないか。

 

これらはカネでは買えない。

カネをうまく使って想像したり、増幅したりはできるかもしれないが、そもそも単位からして異なるものだ。

 

必ずしもそこになくてもいい。

それを信じるだけで、思うだけで、確かに心が結ばれたり、豊かになったり。

まるで最高の温泉に浸かっているかのような幸福をもたらしてくれるもの。

 

そういうことに想いを馳せ、自分の人生をちょっと見直してみちゃう機会にしたい。

そんな19の終戦記念日である。

責任という束縛

歳をとるにつれて、いろんなことを任せていただく機会が増える。それは、成長や評価の裏返しであり、他者に便益を与えられる喜びをもたらしてくれる。


人との繋がりがいかに大切かという認識は、コロナ禍が我々にもたらした最も貴重な概念であろう。心が栄養を失ったら、乾涸びてしまう。流れがとまったら、錆び付いてしまう。


では、責任ある立場にあることは幸せか?

責任を持つということは、他者に何かしらの期待を受けているということであり、生きていることだ。期待に応えるというのは、責任を全うすること、ないしそれ以上のことだ。

便利なロボットは好かれる。一緒にいて心温まる人も好かれる。両者に対する愛と、施しの性質の違いはよく区別しておかねばならない、などとハッと気づかせたのは春の夜。

If you want to be happy, be.

表題はトルストイの名言らしい。

 

口を開けて餌が放り込まれるのを待ち続ける。そんな人々の愚かさをバッサリと切り捨てるようなひとことである。

 

 我々は、ついつい自分に降りかかるあれこれを何かと他人のせいにしがちだ。

夢がかなわないのは金やコネがないから。金やコネがないのはそういう家に生まれたから。そんな状況が生まれるのは政治が腐っているから。多数決で生ごみを担ぎ上げているわけで、そんな社会はもう終わっている・・・

 

そういうスタンスを貫けば我々はいつまでも被害者でいられるし、あえて努力する必要もない。常に正義である。

手足を奪われた哀れな囚人。嘆くパブロフの犬

 

 

話題は変わる。学歴って何だろう。

 

 私の(暫定的な)答えは「機会」である。かつてのように「安定」や「高収入」が学歴によって保証される時代ではない。しかし、学校には善き友候補(失礼)や優秀な指導者が何万人といて、これまでなんの接点もなかった彼らと自由に交流することができる。そんな環境がインスピレーションを生み、思考を深化する大きな助けとなってくれる。

 そういう意味で、私は都会の大学に進学したかった。そしてした。で、よかった。こんなにも温かく尊敬できる友人に恵まれるなんて、1年前には全く思いもしなかったことだ。何よりよかったのは、彼らの努力が垣間見えること。井の中の蛙には、そういう触発が必要だった。

 

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感染症拡大を受けて大学に通うことすらできなかった春。ひとり暮らしのスタートも切れず、実家に引きこもってオンライン授業とYouTube

 入った大学は第一志望ではなかった。とはいえ、案外名の知れた名門大学が私を受け入れてくれたので、大満足とは行かずとも、どこか満ち足りて燃え尽きていたのかもしれない。

 大学生になったら、無限の可能性が広がっている。そんな淡い期待に冷や水を浴びせたのはコロナだった。まさか春からひきこもり生活に突入するとは、ちょっと話が違いませんかって笑

 このまま何もせずにいれば、なんやかんや学歴や多少の生真面目さで地元の適当な職場に就職して、特に競争や満足が待ち受けているわけでもなく、生かさず殺さずがしばらく続いた果てにぽっくりと召されるのではないだろうか。もうなにも成長なんてないし、詰み筋なんじゃないか。近視眼的な若者はこういう悲観的思想に陥りがちである。と思っている。まさに大馬鹿者である。

 

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 環境を変えてみることは思ったより大切なようで。よく、家では勉強が手につかないけれども自習室に行けば勉強できるんだよね、とほざく人間がいる。私もその一味である。そういうことをいうと、やれ将来を考えて我慢もできない馬鹿者だとかなんとかいう人もいるらしいけれどそんなことはないだろう。世の中そんな理想論では回らないし、そこは本質ではない。砲台の発射角度は、少しずれただけで着弾点に大きく影響する。そこはしっかりと手をかけていい。貧富の差が教育格差につながるのも同じことで、中・上流階級とかいわれる人々の子はその時点で大概教育を受ける素質を持ち合わやすいことになる。それがずるいというよりは、そうでないことこそ憂うべきことだ。

 世界を変えたいとみんな言うけれど、自分を変えようと思う人は多分それより少ない。まずは自分を変えよ。ただし、いざ変わる/変えるためにもまずは整地から入るのがよい。あるいは、整地された場所を自分で選び、移るのだ。それは、世間一般が学歴に求めるところの重大な部分ではないかと思ったりする。

 

 今しかできないことを力いっぱいやりきることの重要性はそこにある。紆余曲折の果てに何かをつかみ取るには、紆余曲折しなければならない(同語反復)。知識とは、記憶力によってではなく思想上の努力によってのみ真に獲得されうる。自分の限界を規定してしまうことはごく自然なことだけれど、ときにはそれを疑ってみたほうが良さそうだ。そうできる環境があるなら、今実行できる、やりたいことにタックルすることが人生のペダルを漕ぐことになるのではないでしょうかね。なにもわかっちゃいないけど。

「舌を肥やすな、飯がまずくなる」

足るを知る、さらば富む。

 

 人間が抱く悩みの大半は、人間関係に起因するらしい。確かに、現代日本では生存権が保障されていて、人権も尊重されてるし、治安も良くて、大概の病気は治してもらえる。我々は先人に比べれば今日いちにちを生き延びるためにそれほど体を張る必要もなくなり、ゆとりのある生活が送れるようになったのは事実だろう。見渡せば大卒だらけという状況がそれを象徴している。

 

 そういう社会にあってここ最近表面化している新たな問題というのは、やはり心理的なものであろう。からだへの暴力はほとんどなくなったけれど、ことばの暴力というものは表現の自由とのはざまで依然として繁殖している。

 あのひとはあんなにすごいのに...... あのひとはこんなこともできるのに......

インスタグラマブルな写真の海と、編集済みの近況報告。上澄みのシークレットブーツを履いて、目抜き通りを闊歩する。相対的な価値観にかたちづくられた社会は、精神的でアイマイな世界の存在を許さない。彼らはいつもまっすぐな定規を持っていて、すぐはかりたがる。出る杭は打って、出てない杭も打つ。ワタシもその海をたゆたうはかりであったが、どうやら他の杭よりは高いところにあるらしい――

 

 自己満足、って、社会的にあんまりよくない響きを持った言葉だと思いませんか。少なくとも、「おお、きみの自己満足はすばらしいね!」と言われて手放しに喜ぶひとは少ない。それは、きみのなかだけで完結するものごとに、社会はほとんど価値を見出さないってことだよね。まあ、大抵の自己満足は他人に何のメリットももたらさないし、あるとすればデメリットばかりだ。そういう価値観が一般的なのは至極当然だろう。

 

 逆に、他人のために身を粉にして働くひとは社会的に好まれる。だけどそれは、心じゃなくて、労働という没個性的なものに対する好意であることがほとんどだ。バカ真面目は重宝されても愛されない。大企業Amazonは称えても、勤勉な配達員を褒め称えた人はどれほどだろうか。売春婦に群がる男衆に、骨を拾う覚悟を持った者はどれほどだったろうか。

 

 没個性化が進む近代社会で、「わたしとはなにか」という問いは、案外重要である。宇宙の使命に命を燃やす義理はないし、そもそもそんなものはこの短いライフスパンには関係ない。ただのいち市民であったとしても、そのタンポポの根は決して裏切らない個性だ。

生まれてきたのは何のため?

なんのためにうまれて なにをしてよろこぶ?

わからないままおわる そんなのは嫌だ!

 

 

 生きる目的――それは狩猟採集に励んでいたころの人類にとっては極めて明瞭だったろう。しかし、学問、経済、医療などあらゆる水準がかつてないほどに進歩し、治安も申し分なく、どうしても首が回らなくなればセーフティーネットにひっかかる。

そんな満ち足りた環境に身を置かれた現代日本人が渇望するものとは何だろう。

 

 

すくなくとも、万人の共通認識として追い求めなければならないものはほとんどなくなったといってもよいだろう。バイタルなものは正味黙っていても手に入る確信があるのかもしれない。

私は一人暮らしを始めて自ら家計簿をつけるようになってからお金の尊さを改めて実感したところであるが、それだって飢え死にするわけでもなければ、望めばすぐにお医者にかかることだってできる。

 

 

それが問題だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

いきねば。

 

 

――生きられます。

 

 

.............

 

 

 

......え、じゃあ、どうする?

 

 

 

 

 漫然と過ごして後から後悔する、なんて話はちっとも珍しくない。いや、むしろそれが自由というものだ。目的がないから日曜日は朝から晩までゴロゴロできる。心行くまで読書ができる。ゲームができる。スポーツができる。勉強ができる。余計なことができる。

 

一日中思索に励むなんて、なんと高尚なことではないか。

 

 

 ところで、「ニートは楽そうでいいな、あわよくばなりたいな」と考えたことがない人はきっとこの地球上に存在しないだろう。しないとして考えることにします。まあでも現実はそんなに甘くないんだろうな、と改めて思うわけです。

 休符は、それ自身のみでは何も生みだせない。

あそび、というものは張りがあるからこそ意味を成す。じゃあ、この有り余る時間は?

 

 

ここまで、なんとなく個人レベルの話をしてきた。

いやいや、それ以前に人類とか太陽系全体としての使命ってないんですか?

 

目的論的には、あるんだろう。

 

ただ、そこに風穴を開けたのが、ダーウィンの"Theory of evolution"、世にいう「進化論(転化論)」だったわけじゃないですか。

要は、自然選択によって生物は転化してきた。ビックバンも、水素ヘリウムの発生も、地球の誕生も、みんなすんごい偶然の産物であってそこに偉大な意志とかはないんだよーっていうド正論ですよね。少なくとも他のそういう理論なんかよりはよっぽど説得力があるよ。

 

 

じゃあ、究極的にいえば人生に意味ってないの?

 

 

いやいや、それは早計過ぎやしませんか。そもそもあなたはずっと宇宙への献身を信条にここまで生きてきたんですかい。そんなことはきっとないよね。

 

 

 

 そう、やっぱり時はマクロとミクロに分けて考えたほうがよいでしょう。

我々は、個人的に言えば、悠久の宇宙に生きるというよりかは無数の瞬間の中を生きているのであって、それが織りなす全体なんてちっとも意識しないまま過ごしているのではないでしょうか。

 

もし、人生に使命であるとか価値を見出すのであれば、それは悠久たる世界の内部、それもほんのほんの一部、無数の瞬間にだけありうるものなのではないかと思うんです。

後世に名を残したい。そういう志は素晴らしいものであるに違いないけれど、マクロな視点から見たらそんなものはほんとにちっぽけなものでしかないのではないか。強いていうなれば、ここまで生命活動に参画し、(間接的であっても)生命をつないできたすべての個体は功労者であろうけども。

 

 

我々はすべてmortalな存在だ。しかしそれは人生という音楽を奏でるのに極めて重要な要素である。少なくとも私はそう確信している。

 

 

永遠なんて 素っ気ないね  ほんの仮初がいいね

いよいよ宴もたけなわ 本番です

 

 

今しかできないことを全力で。

 

 

 

 

世界に働きかけよう! 「学びを結果に変えるアウトプット大全」を読んで

「勉強」ってどんなものだろう?

 

教科書とノートを机に広げ、教師の話を書き取る。

テスト前になってようやく己の無知を自覚し、慌て、一夜漬けで滑り込む。

昔習ったことなんて、目下の課題と対応していない限り全然思い出せないし思い出す気もない。

 

そんな学校生活を送っていたのは私だけではないはずです。いや、であってほしい(笑)

 

大学生は遊び惚けてる、大学を出る頃には入学したころよりはるかに馬鹿になっている、などという話をよく聞く。

そして、それはあながち嘘でもないんだろうと思う節もある。

もっともそれは、定量的にテストで測られるような学力に限った話ですけれども......

とはいえ、大学という「ザ・学び舎」みたいな場所でアホになるとは一体どういうことなのか。

 

これらの原因は偏に「受け身の学習」に終始しているから、「インプット偏重の学習」に陥っているからだ。といえると思います。

 

考えてみれば、そりゃそうって感じだよね。

 

例えばあなたがプロ野球選手になりたかったとしましょう。

何かの縁故でイチローさんに直接指導してもらえる機会を得たとします。ラッキー!

当然あなたは彼から野球についてたくさんのお話を聞くことができます。

 

しかし、ここであなたが一切体を動かすことなく、理論だけを学んだらどうなるでしょうか?

 

 

...きっと、それほどの上達は見込めないでしょう。

それほど優秀な指導者がいなくても、朝晩の練習でたっぷりと経験を積んだ地域の少年野球チームの子のほうがよほど有望ではないでしょうか。

それは、どうしてだろう?

 

ここで重要になってくるのが、「アウトプット」です。名著「学びを結果に変えるアウトプット大全」の著者である精神科医の樺沢紫苑さんは、

input : output = 3 : 7 が望ましいと著書で述べられています。

例えば、1か月に10冊の本を読んで全くアウトプットしない人と、同期間に3冊の本を読んで全てをアウトプットする人とでは、後者のほうが明らかに成長がみられるというのです。

 

これを聞いて、私は穴があったら入りたい思いでした。

というのも、このコロナ禍で春に上京が叶わなかった私は地元でこれでもかというほど本を読み漁っていたのです。

といっても1週間ちょっとで10冊程度を2周するペースだったのですが、それ以前に私がちゃんとした本を読んだ経験がほとんどないことを踏まえれば上出来中の上出来でした。

こんな生活を続けていれば博識になれるのではないか......もっと賢く立ち回ることができるようになるのではないか......

そんなことばかり考えていました。

 

しかし今やどんな内容の本を読んだのか、そもそもどんなタイトルの本を読んだのかも克明には思い出せません泣

私がおよそ半年の読書体験で学んだことは、漫然と受け取った知識は右から左へとすり抜けていくということ。

ただそれだけです。

 

じゃあ、本を読んで学んだ内容やその感想をアウトプットして運用してみればいいじゃないか?

ということでこれを書いています(笑)

 

 

そういえば最近、受け取った知識に対して何らかのアクションを起こすことの重要性を実感した出来事がありました。

私は大学で哲学の授業を取っているのですが、その担当教授はオンデマンド授業の質問や感想をGoogleフォームで送信することを要求しているんです。

そしてその提出状況が出席点になる。

よくできた仕組みです(笑)

 

さらに特筆すべきは、送ったコメントが匿名で受講生全員に公開されるんです。それらのコメントを選りどって教授も一言コメントを加え、仲間が覚えた疑問からも学びを得ることができる。

これは私にとってだいぶ革新的なシステムでしたね。おかげさまで哲学の授業がすごく楽しみになりました!

論理学的な視点が入った硬派な授業なので普通にやったら爆睡必至だと思いますが、やはり手法って大事だなと。

 

ということでたくさんの学びを与えてくれた「学びを結果に変えるアウトプット大全」を図書館に返し、新たなる書籍を借りてまいりたいと思います。

ああ、一人暮らしって自由でいいな(笑)

 

Thank you for joining and have a nice day!

 

 

 

 

方向音痴のグライダー  ――未来への産声――

 

オギャア、オギャア――

 

 

 

 

母体から産み落ちる赤子。編隊に迷い込むグライダー。

 

 

 

どうやら重度の近視になって、羽ばたき方さえ忘れてしまったところでとんでもない自由を与えられてしまったらしい。

 

 

 

 

 

なぜだろう?

 

 

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思うに、それはいかにも坊やだからである。

 

 

 

極めてあいまいな光に向かって、手の鳴るほうへと、吸い寄せられるように、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ガタン、ゴトン。

 

 

 

 

 

 

 

 

ガタン、ゴトン。

 

 

 

 

 

 

 

ガタン、ゴトン。

 

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有り余る自由を、極限まで余すことなく味わい尽くすにはどうしたらいいんだろう?

 

 

 

 

道なき道を切り開いていくにはどうしたらいいんだろう?

 

 

 

 

 

受動的に重ねてきた偏屈はどうすれば命を宿すのだろう?

 

 

 

 

 

 

 

まずは動いてみないか、というのが、捻りだされた答えだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

現代日本には情報が氾濫している。どこへ行っても、みいんなスマホとにらめっこすることをやめない。

 

 

 

 

 

 

情報化社会は我々にたくさんのものをもたらしてくれたが、おかげで我々はなんでも享受するばかりになってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 文明は進歩しても、ヒトはなかなか進化できないのはしかたあるまい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一見この世界はほとんど完成されたもののように思われるけど、それは単なるドン詰まりかもしれない。

それは、まるで成長をやめた資本主義のように。

 

 

 

 

 

 

 

 

しかし、まだ活路はあろう。まだ見ぬ世界も、いまだ知らぬメロディも奏でられる懐がある。

 

 

 

 

 

 

 

であれば、なにかしらやってみるのがいちばん手っ取り早い。

 

 

 

 

 

 

 

日夜狩猟採集に追われた原始人のように、いや、しかし文明がもたらした先見と網羅性の力を少しだけ借りながら、過去も未来もない「いま、ここ」を紡ぎだしてみないか。

 

 

 

 

 

 

 

運動しなければ、思考しなければ、実行しなければ、錆びつくのはあっという間だ。

 

 

 

 

 

 

いつかは死ぬ。けむりになって飛んでく。

 

 

 

 

 

 

 

でも、君と僕の交流によって、何かが生まれる。

 

そこに未だかつてなかった情動が湧き上がる。

 

 

 

 

 

 

それが僕の抱ける一縷の希望なんだろう。